周期的な「すべて投げ出したい病」

何年かに一回の周期でやってくる「何もかもイヤ病」「すべて投げ出したい病」

何年か前のブログで「ダークサイドに堕ちていた」と書いてたヤツです。

(20161月「ダークサイドからの帰還」)

約4年前か。

私だけなんでしょうか?一般的にあるものなんでしょうか?

3〜4年に一回来ます……。

私の場合を紹介してみようと思います。

★状態

とにかく涙が出ます。

歌を聴いていても、誰かの優しい言葉にも、TVの画像にも、何にもしてなくても、涙が出ます。

悲しいというか、辛いというか、しんどいというか、なんだかわからないけど、モヤモヤして泣けてきます。

ネガティブな感情がポジティブ感情を上回って負けそうになります。

★きっかけ

今回は「溜まっていた古新聞を年内に片付けようと資源回収に持っていったら、年内の営業が昨日で終わっていた」という出来事です。

まぁ、ショックはショックですが、何もかもイヤになるほどの出来事ではないはず。

こんなことくらいで何もかもイヤになるはずがない。

…で、思い返してみると、

*この1、2か月、忙しかった。自分の力ではどうしようもできないツライ出来事があった。

*年内の仕事が終わり、ホッとひと息ついた。

という2つの要因が関係してるのかな、と思います。

それで、やらなくてはならないこと(特に家事)が滞ってしまい、溜まった家事とともにネガティブな思いも少しずつ積もってしまいました。

階段のホコリ、回収に出してない段ボール、牛乳パック、ペットボトル、しばらく洗浄してない洗濯槽、駐車場の隅に溜まってる枯れ葉、一週間持っていってない施設の母の着替え、野菜室の隅の変な野菜、整理されてない冷蔵庫の中、買ったまま植えてない花の苗、いい加減な食卓、夫の弁当作りを連続パス、風を通してない無人の義父の家……。

あぁ〜〜、もうダメだ!いっぱいいっぱい!できない!

ダメダメじゃん、自分。

(こういう思考は、幼少期に自己肯定感の低い人がなりやすいですね)

そこに持ってきて、GSに灯油を買いに行った日が激寒で木枯らしビュービューで泣きたくなるし、

ご飯炊こうと思ったら米、切れてるし、

物置のドア開けたら、棚が落ちてくるし。

こういうの、踏んだり蹴ったりっていうんでしょうか。

ただ、私の場合は、こういう状況になっても、どこかからもう1人の自分が冷静に見てて、

「お〜ぅ、久々に来たね、ソレ。ま、しばらくの辛抱だ。大丈夫、大丈夫」ってささやいているので、

こっちの自分は哀しくて辛くて七転八倒の気分なんだけど、どっかでは安心な部分もあるのです。

この状況の時は、身近にいる人(夫)を責めたり、怒りをぶつけたりしてしまいがちなので、気をつけなくてはな、とも思っています。

どのように回復していくのか??そのうちリポートできるといいな。

コレ、知人の娘さんの消しゴムハンコ。

慈悲の瞑想とその効果

半年ほど前に「慈悲の瞑想」というものに出会いました。

「生きとし生けるものがすべて幸せであるように」と願う瞑想法で、もともとは仏教から来ています。

クリスチャンの私は、これに出会った時「聖書に通じる!」 と感じて毎日この瞑想をするようになりました。

↑これは簡易バージョン。

「親しい人」のところに家族や大切な友達の名前を入れ、*の部分を繰り返します。

同様に「嫌いな人が幸せであるように」の後に*、

続いて「嫌っている人+*」という風に瞑想していきます。

まず自分の幸せを願う

この瞑想のポイントは、まずはじめに自分の幸せを祈っていること。

聖書には「自分と同じように隣人を愛しなさい」とあります。

本当の意味で自分と和解し、自分を愛していなければ、他人を愛することはできないのです。

自分を大切にし、自分を思いやり、愛することは決して自己中心ではありません。自分を犠牲にして人に何かしてあげようとしても、いつか無理が出てしまいます。

自分を大切にし、自分を認め、自分を慈しむことこそ、他者への慈愛の始まりなのだと私は思っています。

慈悲の瞑想の効果

慈愛の瞑想を実践すると、イライラや怒りがなくなり、穏やかな気持ちになれると言われています。

私の場合は?

一番大きな変化は「この世で一番苦手だったあの嫌な虫」に対して、敵対心を抱かなくなったことです。

なんのことがわかりますか?

「ゴ」がつく虫ですよ。

幼少期にトラウマがあり、本当に嫌いでした。

この世から消え去って欲しいと思っていました。

ですが、慈悲の瞑想をするようになってから、「生きとし生けるもの」である彼らのことを、好きになれないまでも、「彼らに罪はないのだ」と思えるようになったのです。

虫に対してそう思えるのですから、もちろん、人間に対してはさらに穏やかな優しい気持ちを持てるようになりました。

街ですれ違う見知らぬ人のことも、「幸せでありますように」と祈ってしまいます。

怒りの沸点が低くなりました。

怒りの持続が短くなりました。

その人の立場や状況を「想像」することができるようになってきました。

苦手なものが少ないほど生きやすい

苦手なものが多いと、ストレスを感じやすく、心も身体も消耗しやすいですね。

逆に苦手なものが少ないと、過度にエネルギーを使わなくて済むので「ラク」です。

そのエネルギーを自分の幸せのため、人の幸せのために使うことができると感じます。

好転反応のある人もいる

好転反応とは、浄化の過程で一時的に悪い症状が発生することです。

慈悲の瞑想の好転反応は身体に現れるものや心に現れるものがあるそうです。

体調不良や気持ちの落ち込みやイライラの増加などの例があるということです。

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慈悲の瞑想は奥が深く、まだまだ極められてはいませんが、これからも続けていきたいなと思っています。

ブログが書けない

半年ほど前から、ブログの更新が極度に減ってしまいました。

子育てに悩むママたちや感情のコントロールで問題を抱えている方たちに、少しでも役立つ情報を発信しようと続けていたブログですが、

書いた内容が誰かを傷つけるかもしれないと気付いてから、文が書けなくなってしまいました。

それまでは蛇口をひねれば水が出るように、書きたいことは自然に流れて来ました。

今は出てこないというか、出てきてもそれをそのまま使っていいのか?と躊躇してしまいます。

下書きのまま完結せずに保存されている記事も沢山あります。

良かれと思ったことで人を傷つけてしまう……。

役に立とう、という思いももしかしたら上から目線なのかもしれない……。

「ブログ読んでますよ!」「あの記事良かったです」「感動しました」

などと言われることで調子に乗っていなかったか?

様々な思いが交錯しています。

自分の言動が怖くなってしまった部分もあります。

これからどうしていったらいいか?思案中です。

「親の面倒はみないでください」★親孝行はしなければいないのか?

将来、親の介護や看護が自分にできるのか?と不安を感じている人は多くいるようです。

また、親の介護をきっかけに子供時代からの親への無意識の感情が引き起こされて、複雑な心境になっているケースもあると聞いています。

我が家の場合、一人娘の私と長男の夫が結婚したので、どちらの親の面倒もみる覚悟ではいました。

けれども、私は親とは一般的な基準からみると「実にあっさりした」関わりをしています。

親との関わりの例・小谷家の場合

★父は18年前に他界。離れて住んでいた上、がんの末期を知らされてから1週間で亡くなりましたので、介護をいうようなものは全くしませんでした。

★義母は2年前に他界。亡くなる1年ほど前から入退院を繰り返し、在宅医療・訪問入浴のほか、施設入所もありましたが、主に義父が頑張ってくれていたので、私は義父への応援のつもりで夕食作りを頑張りました。

★その義父は現在82歳で元気に一人暮らし。近くに住んでいるので、なるべく頻繁に顔を見たり声をかけたりするようにはしていますが、家事など一切手伝っていません。ときどき夕食などを届けます。

★母は1年前までバリバリ元気に一人暮らしをしていたのが、現在要介護5で施設入居中の88歳。

施設では洋服のお洗濯も有料でやってくれるのですが、あえて私がやるようにしています。

というのは、私もフルタイムで働いているため、忙しさにかまけてしまうと母のことは2の次にして会いに行かなくなってしまうからです。

洗濯物を取りに行かなきゃ!と思うと、どうしても週に1.2回は行かなくてはなりません。・・・それくらいじゃないと行かない・・・というあっさりした娘なのです。

介護のイラスト「車椅子のおばあさん」

親への複雑な思い

冒頭の「子供時代の親への感情」ですが、私の場合、親から「とても大切にされた」というよりは気持ちを理解してもらえず苦々しい思いの方が強いです。

もちろん、親の方にはいろいろな事情があり、その中でも精一杯愛してくれたことはわかります。でも、子供時代の私にはそれが十分には伝わらなかった・・・。

だから今、親を手厚くみることはしませんよ!というつもりは全くありませんが、手取り足取り自分の時間を大幅に犠牲にして親の面倒を見ることは、自分には到底無理です。

そんな自分に対して「何か、冷たい」「薄情」「子どもとしてどうなのか?」という思いが全くないわけではありませんでした。

「親孝行は義務ではない」

でも、この間 髙橋リエさんという心理カウンセラーの方の文章に出会ったのです。

髙橋さんは「親の介護に向き合った時の子どもの苦しさ」に対して、「親の面倒は、みないでください」とおっしゃっていました。

「親孝行」は子どもの義務と思って、頑張って介護をする中で物理的にも精神的にもつらい思いをしている方がたくさんいます。

そんな方たちに向けて

「本来、親への感謝や恩返しは、自然にそうした気持ちがわくもので、義務ではないですし、親のために、子の人生を犠牲にしてはいけないと思うのですね。」

と書かれていました。

私はこの文を読んでホッとしました。

親の介護のために余り犠牲を払っていない自分のことを後ろめたく思わず

「無理のない範囲でやってる私だけど、それで十分」と思えたからです。

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介護の仕方は人それぞれでいいのだと思います。一生懸命それこそ24時間体制で頑張る人がいてもいいし、プロの手をうまく借りる人がいてもいいし、私のように仕事も今まで通りやる・旅行にも行くという人がいてもいい。

もちろん物理的に、強制的に時間をとったり気持ちを寄せたりしなければならないことは多くありますが、介護が原因で心や身体を病んでしまうようなことは避けた方がいいと思います。

それには「○○でなけでばならない」という強迫観念・思い込み・まわりの常識にとらわれすぎないことですね。

自分の心や身体が健康でなければ介護も何もあったものではありません。

そしてまた、今度は自分が年老いていったときのことをいえば、子どもに対して「あなたが面倒を見てくれるのが当然でしょう」という考えはきっぱり捨てましょう。

子どもには子どもの人生があります。「○○でなければならない」で縛るのはやめたいですね。